Interview
聞き手・構成:橋本倫史(全6回)
藤田貴大インタビュー
聞き手・構成: 橋本倫史
「沖縄を描くこと」
『沖縄を描くこと』 vol.1
聞き手・構成: 橋本倫史
2021年10月31日更新
沖縄から得たモチーフで新作『Light house』を描くことを通して、演劇作家・藤田貴大が感じたことを聞くインタビューシリーズ。まずは、本作を描くにいたるまでの、沖縄との出会いや『cocoon』(2013年初演/今日マチ子原作)を通じて起こった出来事などを振り返って話してもらいました。
(全6回を予定 /9月8日収録)
──藤田さんは北海道の伊達市出身ですけど、初めて沖縄に出かけたのはいつですか?
藤田 2012年の秋ですね。そのとき、小倉(北九州市)で『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』を上演したあと、打ち上げでベロベロに酔っ払ってしまって。その翌朝、二日酔いの状態で飛行機に乗って沖縄に行ったのが初めてです。
──2012年の秋だと、今日マチ子さんがひめゆり学徒隊に着想を得て描いた漫画『cocoon』舞台化がすでに決まっていた時期ですね。藤田さんが『cocoon』を演出することになったいきさつを聞かせてください。
藤田 2010年に『cocoon』が発売されたとき、僕は書店で働いてて、発売された日のこともおぼえてるんです。漫画担当の方がどよめいてて、僕も「今日さんってこういう漫画も描くんだ?」と思ったのもおぼえてて。それで、その2010年に、編集者の山本充さんが僕の『ハロースクール、バイバイ』って作品を観にきてくれたあと、「藤田君は『cocoon』をやったほうがいい」と言ったんです。それは作中の女の子の扱い方や、女の子が走って海までたどり着くシーンを観て思ったらしいんだけど、その時点ではまだ「この人、何言ってるんだろう?」と思ってましたね。
──その段階から、『cocoon』を上演したいと思うに至ったのは、何かきっかけがあったんですか?
藤田 僕の中で、海っていうのは“町を出ることができる場所”だったんです。海の向こうには本州があって、そこには伊達なんかよりも自由な場所があって、自分はそこへ行って表現をやる――そのイメージそのままが海だったんです。でも、『cocoon』で描かれる海は行き止まりだったし、2011年に地震と津波があって、原発の問題があったときに、海って場所は必ずしも希望的なものではないだなってことを改めて感じて、そのことが感覚的にすごく引っかかってたんですよね。
──2011年の春、藤田さんはカミュの『異邦人』を原案に『あ、ストレンジャー』を発表されています。
藤田 『異邦人』で描かれるのも、どんよりした海で。あの当時、僕は「自分の作品は、18歳まで過ごした伊達って町をどこまで描けるか」ってことで葛藤してたと思うんだけど、そこから海のイメージが変わることで、僕が描く作品が脱皮していくような年だったなと思うんです、2011年は。『あ、ストレンジャー』を作っていたのは3月、4月だったけど、そこから海への感覚が変わっていったんですよね。さらに言うと、そのあと描く『塩ふる世界。』は、実はもう『cocoon』をかなり意識していたと思うんです。
──藤田さんは2011年、『帰りの合図、』、『待ってた食卓、』『塩ふる世界。』を上演されて、この3作で岸田國士戯曲賞を受賞されています。それは伊達が舞台になった作品とされていましたよね。
藤田 そう、自分でも伊達を描いた三部作だと思っていたけど、数年後に『cocoon』を上演するって予定はもう決まっていたから、海まで走るってことはどういうことなんだろうって意識しながら作ったのが『塩ふる世界。』だった気がします。
──今の話にもあったように、初期の作品は郷里である伊達をモチーフにした作品が多かったところから、2010年代に入ってからの藤田さんは外に出ていく時期に入ったように思います。福島県のいわき総合高校の生徒たちと『ハロースクール、バイバイ』を上演し、北九州で出会った人たちと『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』を作っています。あの時期、「自分が描きたいのは伊達なんだ」と、ひたすら伊達をモチーフに作り続けることも可能ではあったと思うんです。あの時期に、外に意識が向き始めたのは何が大きかったんでしょう?
藤田 あの年からいろんな仕事のオファーがきて、福島にしても小倉にしても、自分しか知らない原風景の中にあるモチーフだけで作品を製作していく、というスタンスを変えざるを得ないものがあったんです。変えないとできなかったし。イメージを伊達から離していくことを求めている部分もあったというか。あの時代のマームとジプシーはチケットが数秒で完売して、観客が押し寄せて。いろんな大人に一気に出会って、ああだこうだ言われて――そんな中でも僕は18歳まで過ごした伊達って町を一生懸命把握するように創作し続けていたんだけど、このままいくと誰もが僕の作品に飽きちゃうんじゃないかって恐怖心があって。橋本さんと会うとこういう話になっちゃうけど、あの時期ほんとに酒の量も増えたし、不安で眠れないんですよね。夜まで稽古して、そのあといろんな編集者と12時過ぎまで飲んで、家に帰ってからも飲んで、朝になると稽古に行く。あの頃は不安でしょうがなくて、生活としてかなり荒んでたんですよね。だからいろんな意味で、自分の原風景にはないモチーフに会いたくなっていたし、そこに偶然いろんな土地の劇場や学校からオファーがあったんだなあと思い出します。
──なるほど。そういう不安もあったから、初めて沖縄にくるときも二日酔いの状態で飛行機に乗ることになったんですね。
藤田 いや、ヤバかった。空港で原田郁子さんと待ち合わせて、ふたりでゆし豆腐そばを食べたんですけど、あのゆし豆腐そばが今まで食べたそばの中で一番美味しいそばでした。すごい沁みました。
──そのときは、『cocoon』の上演に向けて戦跡をめぐられたと聞きました。その旅はどういう時間として残っていますか?
藤田 そのときは今日さんが『cocoon』を描く上でどこに行ったか、3日間かけて網羅的に案内してくれて。ただ、お昼は戦跡とかを巡るんだけど、「夜はちゃんと美味しいものを食べなきゃ駄目だよ」って言われて、何も知らない沖縄を紹介してもらって。今となっては楽しかったなと思いますね。
──『cocoon』を上演するとして、原作はすでにあるものだから、沖縄に行かずに描くことも可能だと思うんです。演出として沖縄の風景を再現したわけでもないことを考えると、「上演前に沖縄に行っておこう」と思ったのは何が大きかったんですか?
藤田 ここ数年で気づいたのは、僕は歩くのが好きだし、歩いてみてわかることってあると思うんです。眠りながら見ている夢の中で考えていることもいろんなアイディアに繋がるからとても重要なんですけど、歩きながら考えているのも大切な時間だから、どの土地でも歩くようにしていて。あと、2012年のときは、どこの風景が『cocoon』のモデルになったのかを今日さんに案内してもらうのもすごく大切な時間だったんですけど、もう一つ、郁子さんと歩きたかったんですよね。郁子さんと沖縄を描くとしたら、音楽の話をする前に、音のレベルの話になるだろうなと予想していたんです。郁子さんと音について話せる言葉を増やしていかなきゃ、と。どういう思考で郁子さんが音を作っていくのか興味があったから、音の話を沖縄でしたいと思っていましたね。
──印象に残っているやりとりはありますか?
藤田 沖縄に行って収穫だったのは、戦争ってなるとイメージの中で色が灰色とか真っ黒になりがちだと思うのだけど、沖縄ってすごく色が多くて。音ってレベルでも、ときおり穏やかな水の音が聴こえてきたりするけど、これは戦争を語ったり描く上でキャンセルされているよねって話をしたんです。雨の音が聴こえていたり、ハイビスカスが咲いていたり――そういうのは70年前でも何も変わらないんだとしたら、なおさら残酷なんじゃないかと思ったんです。だから郁子さんとも、「戦争を扇動していた大人たちは、こどもたちに対して、なんて音を聴かせていたんだろうね」ってことを話していましたね。聴かなくていい音とか、見せなくてもいいものってあるはずなのに、なんでそんな音を聴かせるって選択をしたんだろう、って。ましてや、こんなに鮮やかな色や音に溢れている土地で。ただ、それを扱った作品を発表するということは、観客へ向けてそういう残酷な音やヴィジュアルを提示することになるかもしれないってことだから、僕たちもそこに一枚噛むことにもなっちゃうんだけど、そこで残酷な音だけを――当時の大人たちがこどもたちに聴かせていた音だけを――作るんじゃなくて、『cocoon』の中で死んでしまう女の子たちの最後に耳に残る音はどういうものなのかを想像する時間なのかもしれないねってことを郁子さんと話したのは、一番印象的でしたね。
──最初に『cocoon』が上演されたのは、戦後68年が経過した年でした。もしも今、目の前で悲惨な目に遭っている人がいれば、多くの人が足を止めると思うんです。でも、時間や距離が遠くなればなるほど、見過ごされてしまう。戦後68年が経過したあの年に、自分が生まれ育った場所からは遠く離れた沖縄で起きたことに着想を得た作品を描くということは、藤田さんにとってどういう意味を持っていたんでしょう?
藤田 あの頃はちょうど、辺野古への基地移設がまた取り沙汰され始めた時期で。辺野古の問題だけじゃなくて、基地問題にまつわるすべてのことや、基地があることによって起きてしまっている事件が報じられて、耳にして。でも東京にいると、結局それらのことは「ありえることなんだ」って報道のされかたになっている気がしたんです。
──「ありえること」?
藤田 あたかも、そういうことがあっても仕方がないかのように報じられているような違和感があったんです。いくら見て聞いても「いや、ありえないでしょ」ってことでしか僕の中ではなくて。ニュースを見てると、僕の中ではありえちゃ駄目なことが、普通にまかり通っちゃってるように感じて。そうなってしまっているのは、沖縄の問題が沖縄の人たちだけの問題になっちゃっているからじゃないかと思ったんです。“内地”の人間は「沖縄のことは沖縄の人たちで考えるしかないよね」って線を引いてしまっている気がするし、だから沖縄の人たちも「自分たちでどうにかするしかないんだ」となってしまっている部分がある気がして、そこに歴然とした境界線があるなと思ったんです。その境界線のことを考えたときに、『cocoon』を介して、今日さんの姿勢に共感したというか。
──具体的には、どんなところでしょう?
藤田 『cocoon』のあとがきに、「残酷な現実や、大きすぎる敵に対して戦う方法があるとしたら、それはじぶんたちの甘やかな想像力なのかもしれません」って書かれていて。今日さんもぼくも戦争を知らない世代だし、沖縄で生まれてもなければ育ってもないんだけど、知らないことに対して想像する、手を伸ばすって姿勢にすごく共感したんです。だから、『cocoon』を上演することに対しても、沖縄出身ではない僕が沖縄を描く/扱うことに、はっきりとプライドを持って取り組んでいた気がします。沖縄出身の人が沖縄を描くことももちろん素晴らしいことだけど、僕が沖縄戦を描くことで違う広がりが生まれるんじゃないか、と。僕の『cocoon』は、これまでの戦争を扱った作品とは全然違うものになる自信があったし、大げさな言葉で言うと世界が変わると思っていたんです。戦争を描くのは精神的に苦しい作業だから、いろんな覚悟が必要になるんだけど、その苦しい時間の先には違う世界が広がってるはずだと思わないと、取り組めなかったんですよね。『cocoon』を描くことで、世界が変わるんじゃないか、って。