Interview

vol.5 <small>2022年4月25日更新<small>
藤田貴大インタビュー

Interview

「沖縄を描くこと」
聞き手・構成:橋本倫史(全6回)

藤田貴大インタビュー
聞き手・構成: 橋本倫史


「沖縄を描くこと」

『沖縄を描くこと』 vol.5
聞き手・構成: 橋本倫史

2022年4月25日更新

沖縄から得たモチーフで新作『Light house』を描くことを通して、演劇作家・藤田貴大が感じたことを聞くインタビューシリーズ。まずは、本作を描くにいたるまでの、沖縄との出会いや『cocoon』(2013年初演/今日マチ子原作)を通じて起こった出来事などを振り返って話してもらいました。

(全6回を予定 /4月17日収録)


沖縄の初日を振り返って

撮影:岡本尚文

――『Light house』は、沖縄をテーマにした新作を書き下ろすと銘打った上で、那覇に新しくオープンした劇場のこけら落としシリーズとして発表された作品でもありました。そこで「どこの土地にも見えうる作品」という普遍性に寄り過ぎると、沖縄の観客からすると「どうしてこれが沖縄である必要があったのか?」と思われてしまう。一方で、沖縄のあるあるを散りばめた作品をつくるというのも、わざわざ県外から作家を招いて作る必要があったのかという話になってしまうと思うんです。そこでは微妙なバランス感覚が求められるなかで、沖縄公演の初日というのは、どんな感覚で迎えられましたか?

藤田 なんかもう、死にたくなりました。批判される具材なんていくらでもあるわけですよ。沖縄出身じゃない僕が、沖縄にできた劇場のこけら落としを担当する。僕より先に野村萬斎さんも公演をされてますけど、オリジナル脚本の現代劇を上演するのは初めてだってことで――僕は結局のところ格好をつけてるから、あんまりこういうことは言いたくないんだけど――プレッシャーはあるんです。それを愚痴愚痴言っていても面白くないから、言わないようにはしてたんだけど、さすがに初日は「もう、死ぬのかな?」と思いました。NGワードがないか、かなり慎重になって書いたけど、おっしゃる通り、あたりさわりのない話に終始しても「で?」って話になってしまう。やっぱり、最終的には「僕は沖縄をこう見たんだ」ってことを書かないと、すごい肩透かし感が出ちゃうと思うんです。だから、沖縄を描くことにはなるんだけど、パーフェクトな沖縄料理が並んでいる食卓を描くのも、逆に特殊な家庭を描くことになってしまう。そう、それで「ふつう」って言葉を使ったんですよね。

――最初の食卓のシーンでも、運ばれてきた卵焼きに、「これふつうなんだけど、、、、、、ふつうじゃなくない、、、、、、?」と“いっぺい”が言って、「これが、、、、、、わたしんちの、、、、、、ふつう、、、、、、」と“つき”が応じて、「そうなんだけど、、、、、、ふつうがいちばんむつかしいじゃん、、、、、、」と返す場面がありますよね。それ以降も、「ふつう」というのはキーワードになっています。

藤田 だから、「ふつうって何だ?」っていうところですよね。「うちではふつうにこれを食べる」ってことも、別の誰かや別の家庭から見たら、ふつうじゃなくて。「でも、やっぱりアーサの味噌汁はうまいよ」みたいなことはあるし、自分達の中でどうやってふつうを設定していくのか。創作は全体的につらかったんだけど、途中で抜けた感覚があったのは、徐々に『Light house』って世界の中での“ふつう”ができてきたときがあったんです。

――沖縄の“ふつう”じゃなくて、作品世界の“ふつう”。

藤田 『Light house』の中でのトーンが決まって、「こういう世界に生きてる人たちなんだよ」ってことが決まってきて。作品はなんとなく沖縄の那覇のあたりから始まって、チャプター3では公設市場や栄町市場、それにコザに対する自分の体感を描いてはいるんだけど、その世界よりもうちょっと浮いた次元に登場人物を置くっていうのがテーマだったかなと思っていて。そこに批判がきたとしても、「いや、僕はこういうふうに見て、こういう世界を作りました」っていう強度を高めるように、最後は作って行った感じがありました。

――食卓のシーンで印象深いのは、「サクナ」とか「フーチバー」って言葉が出てくると、沖縄好きの人をのぞくと、東京の観客の多くは「うん?」と引っかかると思うんです。ただ、沖縄の固有名詞だけが浮いて聴こえてくるわけではなくて、たとえば「オランデーズソース」って言葉がすらすら出てくると、「えっ、何?」と観客は引っかかりをおぼえると思うんです。

藤田 そのあたりは、沖縄対東京って構図になってしまわないようにしておきたくて。いきなり「フーチバー」って言われてもわかんないように、いきなり「オランデーズソース」って言われてピンとくる人も少ないよねとかって、出口を何個か構えておく感じをテキストに残しておきたかったんです。

“ふつう”をどのように描くのか

――最初のシーンで囲んでいる“みなと”と“いっぺい”は姉弟で、“つき”はその従兄弟で、どうやら沖縄に生まれ育った人という設定にはなっています。ただ、その3人の人物像というのは、「那覇や浦添あたりに住んでいる若者の平均値ってこういう感じだよね」というものとは、ちょっと別物だと思うんですよね。牧志公設市場まで出かけて、ポーたまやパンケーキを食べるっていうのは、地元の人ではなくて観光客の動きだと思うんです。それに、やんばるまで出かけてオーシッタイをガイドしてもらうっていうのも、地元の人だとよほど自然に興味がある人じゃないとやらないと思うんです。そのあたりはきっと、沖縄に暮らしている平均的な姿を描こうとしたわけじゃなくて、そこに外側からの視点を意識的に入れているんだろうな、と。

藤田 それで言うと、もう“いっぺい”は僕でいいなとも考えていたんです。僕が見てきた沖縄っていうのも、だいぶ角度の強い沖縄で、「いきなり水納島に行ったの?」みたいなところもあると思うんです。でも、そういうルートも、僕の中では不自然じゃないんですよね。僕はそういう出会い方をしたから。登場人物は那覇や浦添に住んでそうな若者って設定だから、たとえば沖縄の作家が作るんだとしたら、そこらへんの整合性を合わせると思うんです。でも、僕が最初に行った島は水納島だったし、積極的に読んでたのは『おきなわいちば』だったし、橋本さんの『水納島再訪』だったし――『light house』では冒頭からポーたまの話をしてるけど、『水納島再訪』を読んだとき、ポーたまのところで僕は妙に感動したんですよね。

――水納島に暮らしている達也さんの話ですね。1952年生まれの達也さんが、小さい頃に島を出る機会があるとすれば学校の遠足のときぐらいで、その日はポーク玉子をお弁当に作ってもらえて、それはご馳走だったという話を聞かせてくれて。

藤田 最初の食卓のシーンを見てると、「なんでこの人たち、こんなに『ポーたま』って言ってんだ?」ってなると思うんですよね。特に沖縄の観客からすると、「しかも、空港や市場にある、あの『ポーたま』のことを言ってるらしいぞ」って。でも、そのポーたまってものが、水納島のチャプターに至ったときに、違う意味になってくる。ポーたまにだって歴史があるし、それにだって人の生活が関わってるんだってことを、どちらかと言えば東京の観客向けにやっておきたかったな、って。

――“いっぺい”の台詞の中に、「それぞれの“ふつう”を、、、、、、ネタにして笑うやつっているけど、、、、、、その、、、笑うかんじがわからないんだよなあ、、、、、、」って言葉もありますけど、「沖縄にはポーク玉子おにぎりってのがあるらしいぞ!」って特別視するのも、「それぞれの“ふつう”をネタにして笑う」ってことに近い視線ですよね。この“いっぺい”の視点が印象的なのは、ネタにして笑われた当事者の視点ではなくて、当事者の隣りなのか、あるいは俯瞰した視点から見ている立場だな、と。

藤田 僕はやっぱり、一個一個の作品を作るにしても慎重になりたいし、力を尽くしていきたいなとますます思えてきてるんだけど、人のふつうを笑うやつとは一緒に作れないなっていうのがあって。人のふつうを笑う感覚の役者がひとりでもいると、それだけが純度が下がるし、僕が作品を通じて言わんとしていることが通らない人とは作れないなと思うんです。その台詞は、『Light house』の声明みたいなところもあって、この作品では人のふつうってことを扱っているし、ここには人のふつうを笑う人はいないですよってことをちゃんと言っておかないと、作品の後半で難しいところを描くときに、うまく伝わらないんじゃないかと思ったんです。この作品はあなたたちのふつうをネタにしているわけじゃないんだってことを山本の口から言っておかないと、演出が通っていなかいような気がしたんですよね。

撮影:岡本尚文

終演時刻にピリオドを打たないために

――舞台の後半に差し掛かったところで、「あれは、、、、、、あの海に、、、、、、土砂を運ぶ船だよ、、、、、、」「海が、、、、、、海じゃなくなるって、、、、、、どういうことだろう、、、、、、」って台詞も登場します。そこで固有名詞は出てこないけど、沖縄の観客はもちろんのこと、東京の観客も辺野古のことを思い浮かべると思います。これは岡本尚文さんや川名潤さんとの鼎談の中でも、辺野古の埋め立てに対してはもちろん反対ではあるんだけど、自分の表現の中でどうそれを設計するのかってことが問われるって話があったと思うんですね。実際に上演に至るときに、その点についてはどういう感覚に至ったんでしょう。

藤田 辺野古のことをテキストにするってことを出発点にはしないようにしていたんです。ただ、物語を組んでいくときに――人って海の下が「地下」って感覚ってないと思うんですよね。でも、海の下も地下だと思ったんです。ひめゆりの子たちが過ごしていたガマも地下で、地下に水は流れて行って――その「地下」ってことで、僕の中でフィクションとして繋がってきたところがあって。地下に向かっていく感覚が僕の中で強くなれば強くなるほど、今まさに土砂が投入されている海の下から水面を眺めているサメがいるんだとしたら、それはどういう気持ちなんだろうなって思うようになったんです。『水納島再訪』の中にも辺野古に土砂を運ぶ船が見えるって話も出てきたし、それを描くことでいろんなところに手を伸ばせるような構造が戯曲上にできていて。そこを描くことが物語の中でも必要になってきたし、そのデザインが成立しそうだから書いたってことですね。

――今の話とも根底のところで繋がる話だと思うんですけど、「何万年も、、、、、、何億年もまえから、、、、、、この海は、、、、、、この海だった、、、、、、」「もちろん、、、そこに拍手はない、、、、、、海が海であることに、、、拍手なんてないだろう、、、、、、」という台詞が終盤に語られてもいます。沖縄が今抱えている問題を作品の中で描くときに、観客から万雷の拍手を受けて終わってしまうと、何も変わっていかないところがあると思うんですよね。そこはやはり、拍手をして一区切りつけて、観客が日常に戻っていくというのではなくて、考え続けるっていうことを手渡したいってことがあったんじゃないかと思うんです。

藤田 これは2年前、『cocoon』の準備に入ろうとしていたとき、青柳に話していたことなんです。「Title Tプロジェクト」で『BOAT』(2018年)のTシャツを作ったとき、そのネームタグには青柳が最後に語る台詞を入れたんですよね。『BOAT』って作品は、「もう、たったいちどしか言わない/くりかえさない/これは 祈りなんかじゃない/そこに、なにがみえるか?/未来はあるか?」って言葉でカットアウトするんですけど、あの台詞以上の言葉を『CITY』(2019年)で書けたかなって考えたんです。僕の中では『BOAT』と『CITY』はレベルが一緒だったなと思ったときに、それを超える言葉は何かと考えると、青柳の声で「拍手なんてするなよ」って言ってカットアウトするのが一番だなってことを、コロナ禍が始まった春に話してるんですよ。

――『Light house』のことを考え始めるずっと前から、その言葉はどこかにあったんですね。

藤田 拍手って何かにピリオドを打つような行為だと思うんだけど、「今この状況で何かにピリオドを打つって無理でしょ」みたいなことを、事務所で話したのを思い出して。拍手なんて、どこに行ったってないと思うし、拍手して終わりみたいな表現じゃ駄目だよなと思うんです。ただ、「拍手なんてない」って言葉は、「生きていることに拍手なんてない」みたいに捉えられる可能性もあるから、慎重になったところもあって。ただ、最終的には、「ひかりがひかりであることに拍手なんてないし、そもそも拍手なんてない世界に僕らは生きてるよね」ってところに振りたかったんです。