Dialogue2
聞き手・構成: 橋本倫史
小金沢健人(環境演出)×東岳志(サウンドスケープ・音響)×藤田貴大
『Light house』関係者鼎談 vol.4 – 後編 –
聞き手・構成: 橋本倫史
橘田優子(衣装)×青柳いづみ(出演)× 藤田貴大
──今回の『Light house』は、ただ単に「衣装を作ってください」とお願いしたわけではなくて、藤田さんが橘田さんと言葉を重ねながら、少しずつイメージが膨らんでいった作品なのだと思います。そうしてふたりが言葉を交わすところに、青柳さんも一緒にいる時間も多かったと思うんですよね。そうした時間を経て、出来上がった作品の中に立っている今、どんな感触を得ていますか?
青柳 なんかまだ、ずっと揺れている感じで、毎日違うんですよね。難しいです。
藤田 それ、ずっと言ってるよね。「今回は一番難しい」って。
青柳 なんか、難しい。
藤田 いろんなインタビューでも言っているように、「こういうワンピースを作って欲しい」って話し合いは面白くないなと思っていて。今回の衣装で言うと、それこそ青柳がいま着ているこのワンピースなんですけど、ここに紐があるんです。あるとき橘田さんが、「この結び方で全然時間が変われるかもよ」ってことを言ってくれて。
青柳 このワンピースを、沖縄で橘田さんが着てたんだよね。
橘田 そう。いづみちゃんがずっと「そのワンピースが欲しい」って言ってたから、これを軸に考えようと思って。水みたいに流動性があるものをって考えたときに、形が決まりきってなくて、シーンによって変化していくっていうものを取り込みたかったから、できるだけシンプルで、紐の結び方や緩め方で印象が変わるっていうふうにしたくて。衣装としてどこのゾーンを求められているのか、微妙に悩んだところでもあるんだけど、最終的には小金沢君が美術全般を見ているなかで、私は色のコンポジションとして機能できたらいいな、と。色として機能する。着るものは流動的である。そのふたつを、シンプルに捉えるようになって。
藤田 そう考えると、「今回は難しい」っていう理由がわかるんですよね。これまでの僕の「新作」って、もうちょっとはっきりしてたと思うんです。たとえば『BOAT』のときだと、港町のブルーカラーの感じをスズキタカユキさんと話し合ったり、『CITY』のときはANREALAGEの森永邦彦さんと光るというテーマで話したり。衣装のコンセプトが意外とはっきりしてたんです。今回の衣装は、今の橘田さんの話にもあったように流動的なところがあって、僕とか小金沢さんも「流動的なものを」ってことをめちゃめちゃ言ってるから、そうなると役者は難しいよね、っていう。
青柳 うん。美術もどこに何が置いてあるか毎日違うし、服も決まっているようで──今もね、こう、手につくんですよ。体が藍色になってくる。藍の葉っぱをきゅっきゅすると色がつくのと同じように、手が藍色になって、今着ているこれは、藍そのまんまっていう感じがする。舞台上でやってること自体も、珍しく役名がついてるけど、自分が誰をやっているのか、よくわからなくなる。誰でもないというか、誰でもいいというか。「今回ははっきり『こうだ!』って言い切って欲しくない」とか、「今も考え中だし、観客だって考えてる途中だし、答えじゃなくてある誰かが考えている途中だってところを見せてほしい」とか、藤田君に言われて。「途中だから」って。
藤田 役者さんって、多分、思っているよりもずっと答えが欲しい人たちなんですよ。たとえば今ここが何時なのか、どういう服を着ているのか、どういう関係性なのか。それを作家やデザイナーが軽んじているわけではないんだけど、今回はそういうところじゃない方向を持って取り組んでいるから、役者さんは曖昧なゾーンに放り出されているような部分もあると思うんです。いや、乱暴に放り出してしまっているだけではないと思うんだけど、そこをはっきりと固定させちゃうと、ただの一家族しか描けなくなっちゃう気がする。そうじゃなくて、いろんな家族にあてはまったり、いろんな時代にあてはまったりするほうが面白いと思ってるから、あんまり感情も決めて欲しくないっていうのがあって。それを決めちゃうと、ちょっと説教になっちゃうし、「こういう考えを今回の作業で持ちました」みたいになるのは違う気がしてて。さっきのヘリパッドの話も──いや、もちろん反対ですよ。反対なんだけど、さっきの橘田さんの話にもあったように、反対の仕方があることに気づくことだってある。だから、自分のコンポジションだよね。自分のポジショニングって、明日には違うと思うんです。明日にはまた違う言葉を聞いて、微妙に変わってゆく。それって昨日はここにあった水が、明日にはまた違うところに流れ出てるようなことでもあって、それが役者さんに求めることでもあるんだけど、それって難しいでしょうね。
生葉染めの色の淡さ
──ここまでのお話を伺っていると、変わっていくこと、揺れ続けることが根底のテーマとしてあるように感じました。変わっていくこと、揺れ続けることについて、普段どんなことを考えたり感じたりしているんでしょう?
橘田 洋服として表現するときは「変わらないようにしよう」っていうのが前提としてあるんだけど、インスタレーションという領域においては変わっていいと思っていて。たとえば大きい布を空間に置いたとき、それが徐々に褪せていくってことは、褪せたものはどこかに流れ出ているんじゃないかと思っているんですよね。それも時間に繋がる話で、老いていくことを受け入れることにも似ている。逆に言うと、老いていかないこと、古くならないものに価値を見出す感覚っていうのは不自然だと思っているんです。それってきっと、一個人の生命っていうものが、生まれてから死ぬまでで終わるって感覚があるから、アンチエイジングみたいな考えになってしまうんだと思うんです。でも、『Light house』で実子が演じるキャラクターの名前がつながっていくように、生命っていうのはひとつの人間ってタイムスパンじゃなくて、自分より前の生命や自分の先にある生命までがわたしだって思えたときに、老いることが怖くなくなるんじゃないか。だから、インスタレーションでは褪せていくこともよしとしていて、そういうものを表現したいなと思っています。
青柳 最初に工房に行ったとき、琉球藍の生葉で染めた布を見せてもらったんですけど、ものすごく薄い水色なんです。それがすごく綺麗で、これを皆が見れたらいいのに、って。
藤田 生葉染めっていうのは、何なんでしたっけ? さっき話してくれた、発酵させる染め方とは違うんですよね?
橘田 そう、違うやり方で。琉球藍の生の葉っぱを、フレッシュな状態でミキサーにかけて、それを濾した汁に布をひたして染める。
藤田 その色が、ほんとに水納島の海の──。
青柳 ねえ。同じ色してる。
橘田 そっくりだよね。それに、メインビジュアルの写真の色ともかぶる。ちょっと緑がかった、薄い水色。色はあるけど、ほぼ透明で、水みたいな色っていうか。いづみちゃんと最初に話したときにはもう、ああ、生葉染めの色を使えたらいいなってことは思ってたんだよね。
藤田 青柳は青柳で、最初から「これを見せたい」みたいになってて。使うか使わないかじゃなくて、「これを見せたほうがいい」って。最後に出てくる大きい布が、その生葉染めで染めた布なんです。
並行世界としての過去と未来
──今回の作品は、水を媒介にして、いろんな時間やいろんな場所に繋がっていく話でもあります。橘田さんの話の中でも、「福島も沖縄も、どこの水も、隔てられることなんてないんだ」と思えて、受け入れることができるようになったという話がありました。ただ、そうやってすべてが繋がってしまうということは、人によってはとてもおそろしいことにも思えることだと思うんです。すべてが繋がってしまうだなんておそろしい、と。何かを媒介にして繋がっていくことに対して、どんなことを今感じているのか、聞かせてもらえますか。
藤田 今日こうやって話しながら気づいてる部分もあるんですけど、せっかく「新作」と言っているんだから、何百年か先にこの戯曲や記録映像が見返されたときに、廃れていないものを目指したいなと強く思ったんですよね。これまでいろんな人が未来を予想していて、「治らない病気がなくなって、体が朽ちなくなる」だとか、「脳だけが生きていれば、脳が作り出すバーチャルな世界に人は生きるようになるのかもしれない」だとか、未来に対していろんな予想図があると思うんです。その時間に僕の作品が生き残るんだとしたらってことを、初めて意識した気がしてて。
──これまでの作品でも、たとえば100年ぐらいの規模で未来を想像するってことはあった気がするんですけど、今の話はもっとずっと先にある未来ですね。
藤田 こないだ話したのは、ドラえもんのタイムマシンってあるじゃないですか。あれはタイムマシンに乗って時間を移動するってことになってるけど、ああやって本当に僕らが過去や未来に行けるってことになるんじゃなくて、仮想世界みたいなところから過去や未来に繋がることになるんじゃないかと思うんですよね。たとえば、すでに予測できていることってあるじゃないですか。「このまま環境汚染が進めば、魚がいなくなる」とか。その未来をどう変えていくかってことは別にして、数字の精度を上げていけば、2040年にはこうなる、2060年にはこうなるってことが予測できるようになると、仮想世界として現段階としての未来ってゾーンができてくる。そういう意味でのタイムスリップって概念があるような気がするんですよね。ただ、そこでちょっと難しいのが過去で、過去ってもうすでにあったことだから、再現も何もないと思うんです。死んでしまった人は、もうそのタイミングで死んでしまっているわけだから。
橘田 でも、死んだ人は時間の外側にいて、時間の外側にある世界を彷徨ってたりするんだよね。
藤田 そう、それが作品の中でも言ってる「マブイ」(魂を意味する沖縄の言葉。驚いたときに、体内からマブイが抜け落ちると考えられている)みたいな考え方だったりするのかもしれないんだけど、演劇でそれを表現できるような感じがしてるんだよね。インターネットっていうのも並行世界だと思うんだけど、そういうことを自分の演劇の中で表現できそうな気がしてる。
橘田 今回の作品はもう、それをやってるんだと思ってた。
藤田 こことは違う並行世界があって、そこは時間感覚がバラバラになっている。でも、過去にあったことはたしかにあったことだし、未来は未来としてある。こうやって話してると抽象的な話にしか受け取られないと思うんだけど、僕の中では抽象的じゃないんだよ。たとえばひめゆりの子たちのことも、インターネットで検索したら、そこには扉が開かれていて、ケータイの画面の中にその過去が存在している。そうやって並行世界への扉がいくつも開かれているようなことを、これからやり始めるのかなって想像してるところで。
橘田 今まで言語化されていない領域のことをやろうとしたときに、まだまだわたしたちは抽象的な言語でトライしていくしかないってところもある気はする。
先の時代を生きる人たちに向けた手紙
──今回の作品には、過去に存在していた時間のことや、同時代にどこかで流れている時間のことが配置されています。そこには辺野古のことや、77年前の戦争のとき、小さな島で起こったことも示されています。それらを扱うときに、どのような手つきでアプローチするのか、問われる部分もありますよね。
藤田 今だったら77年前の戦争ってことになるのかもしれないんだけど、10年先にはまた変わるわけじゃないですか。もっと戦争は遠くなるし、辺野古の問題がどうなっているかもわからなくて。ただ、さっき橘田さんが「次の命」って話をしてくれたけど、何百年か先に繋がった命があったとして、その命がこの物語を見たときに、「ああ、この時代にはそういう距離感だったんだ」みたいに、昔話にならないでほしいなと思ったんですよね。「今でもこれってあるな」って感覚のことをやりたくて――だから、演劇とかいう一回性の強い表現をしておいてどの口が言ってんだって思われるかもしれないけど、もっと先の時代を生きている人たちに向けた手紙だとも思っているんです。果てしなく未来を生きている人たちが観たときに納得するかもしれないって曖昧さで書いたから、今の時代にはピンとこない作品かもしれないなって気もするんですよね。
──それは藤田さんとしてはかなり珍しいことですね。これまでだと、「あくまで今日この劇場にやってきた観客に向けて言葉を語りかける」ってことを、ずっと言っていた気がします。
藤田 たしかに、『CITY』までは、もうちょっと強い気持ちでいたんです。「現在の人たちに観てほしい」って。でも、これはコロナ禍があって、「今は自分の作品を見せられない」ってことが2年間続いたせいかもしれないんだけど、それがこんなに続くと、今ってところにフォーカスしなくなってきてて。そういう不思議な感覚が今はあるんです。
橘田 私は16歳のときに劇団健康を観て以来、演劇を何も観たことがなくて、演劇にかかわるっていうのは私にとって初めてのフィールドで。でも、演劇っていうのはこういうものなんだとしたら、「演劇ってマジですごいな」っていうのが今の感想です。演劇にしかできないことってすごくあるし、沖縄の初日を観た感想を四字熟語であらわすと「重重無尽」だな、と。さっき話したインドラの網が表しているのも重重無尽ってことらしくて、すべての存在が関わり合って、重なり合っていて、そのすべてを司っている。今回の舞台も多層に重なっていて、音響、美術、演出、役者の演技、衣装、指先まで意識を渡らされたものが藤田皿に乗っているみたいな感じがあって、「これだけいろんな種類のものを、意図/意志を持って扱うことで、これだけ厚みのあることができちゃうんだ」って思ったんだよね。
藤田 ありがとうございます。
橘田 個人的な感想としては、沖縄を扱うのはすごい難しいことだと思うんです。しかも、沖縄で初演だったから。沖縄だと、普段からアートに触れている人が少ないっていうのもあって、それなりにハードルが高いだろうし。だから私、沖縄では微妙な立ち位置で観ていたんですよね。沖縄の人がどう感じているのかな、って。しかも、沖縄の状況は複雑化していて、コロナでより貧困が進んで、お金のほうをチョイスするしかないってことで、基地を受け入れるほうの市長が通っちゃう流れができていて。今は正しいことすら言えなくなっていて、その状況はマジでヤバいなと思っているから、こうして作品の中で正しいことを言ってくれることはすごく大切で。正しさを突きつけることって、薄っぺらいものになってしまうこともあるけど、正しいことすら言えない状況になったときに「正しいことをあえて言おうよ」って言ってくれるのは、すごく大切なことだと思うんです。だから、さっき藤田君が地球の成り立ちの話のことを言ってたけど、こういう状況にあるからこそ、ちょっと恥ずかしいようなこと、普通だったら言わなかったようなことを言ってみたくなるところもあるのかな、って。
藤田 ああ、そうかもしれない。こうやって鼎談の場で地球の成り立ちとか話しちゃってるのはめっちゃ恥ずかしいんだけど、作品の中でそれを言っておきたかったっていうのはある。
橘田 だから、「言ってくれてありがとう」っていうことは、沖縄に住んでて個人的に思ったところです。
わたしたちはどこから舞台をまなざしているのか?
──藤田さんの「新作」の中で、青柳さんが言葉を発するっていうことは、「決定的な言葉を言うから、絶対聞き逃すなよ」っていうくらいの強い言葉を、その回の上演を観にきた観客にいかに突き刺すことができるかってことに尽きていたようにも思うんです。でも、この鼎談の話にもあったように、今回の作品で語られる言葉っていうのは、「その日の観客に突きつける」みたいな性質のものではないと思うんです。さっき東京公演の3日目を終えたところですけど、ここまでやってきて、今回『Light house』という作品の中に立っているというのは、どういう感触がありますか?
青柳 舞台に立つのが久しぶりってわけでもないんですけど、今回はすごく、こっち(舞台の奥)を見てしゃべりたい。というか、自分がどちら側にいるのかよくわからなくなって。でも、沖縄で稽古をしているとき、こっちを向いてしゃべってたら、藤田君に「やぎ、どこ見てんの!」って怒られたから、私が見なきゃいけないのはやっぱり客席なんだと思ったんですけど。ほんとはサバニの帆を私も見ていたい。揺れる波を見ていたい。でも、さっきの話にもあったように、水を媒介にしてあらゆるところへ繋がる、その繋げることが私のやるべきことだから。
藤田 たしかに、不思議なラストだよね。ラストに限らず、沖と岬っていう対極の関係があるんですよね。
──岬には灯台があって、そこからひかりが放たれているんだけど、そのひかりはただ放たれているだけじゃなくて、向かい側に位置する沖のほうから、それをキャッチする誰かが存在する、という。
藤田 そう。“いっぺい”は岸に向かってサバニを漕いでくるわけだけど、観客はそれをどこから見ているのか。そこは僕も別に、答えを決めてるわけじゃないんですよね。『Light house』を東京で上演するってことも、登場人物たちは沖縄からこっちを見ているのか、こっちから沖縄を見ているのか。その捉え方は複雑にあるなと思うんだけど、それを物語が決めてないんですよね。そういう意味でも、これまでの新作と違って、不思議な作品だなと思います。
橘田優子(きった・ゆうこ)
kitta主宰。1998年に植物染色を始め、現在は沖縄県北部にてスタッフ数名と共に染料の栽培や採取、薪の火や発酵などによる染色、デザイン、縫製まで物が生まれてから土に還るまでを分断のない一つの流れとして捉え、自然と人間を媒介するというコンセプトを軸に衣服や空間作品まで幅広く制作を行なっている。https://kittaofficial.com
青柳いづみ(あおやぎ・いづみ)
舞台女優。マームとジプシー、チェルフィッチュ両劇団を平行し国内外で活動。また演出家・飴屋法水や彫刻家・金氏徹平との活動、音楽家・青葉市子とのユニット、近年は文筆活動も行う。漫画家・今日マチ子との共著『いづみさん』(筑摩書房)、朗読で参加している詩人・最果タヒの詩のレコード『こちら99等星』(リトルモア)が現在発売中。