Interview
聞き手・構成:橋本倫史(全6回)
藤田貴大インタビュー
聞き手・構成: 橋本倫史
「沖縄を描くこと」
『沖縄を描くこと』 vol.2
聞き手・構成: 橋本倫史
2021年11月6日更新
沖縄から得たモチーフで新作『Light house』を描くことを通して、演劇作家・藤田貴大が感じたことを聞くインタビューシリーズ。まずは、本作を描くにいたるまでの、沖縄との出会いや『cocoon』(2013年初演/今日マチ子原作)を通じて起こった出来事などを振り返って話してもらいました。
(全6回を予定 /9月8日収録)
──藤田さんが『cocoon』を初めて舞台化されたのは2013年の夏でした。その上演が終わった年の秋、ちょうどクラムボンのライブも沖縄で開催されるタイミングに合わせて、藤田さんは沖縄にこられています
藤田 ほんとに不思議なことなんですけど、上演はもう終わっているのに自然と沖縄に行ったんですよね。沖縄と関わることをストップするって選択肢がなかったから、ほとんど無意識のまま沖縄に行って、まだ終わっていないふうな口ぶりで(原田)郁子さんとも作品のことを話し続けていましたね。その年の冬に、郁子さんと今日さんと中華料理屋へ行って、もう次の『cocoon』の話をしていたんです。「これはもう、またやることになるよね」って。次の機会があるのであれば東京だけじゃなくて、沖縄を含めて全国ツアーすることを目指そうって、その年の冬に三人で決めていましたね。
──『cocoon』を再演しようと思った理由はどこにあったんでしょう?
藤田 いくつか理由はあるんですけど、僕の中で大きかったのは、あの時期は政治の様子がめくるめく速度で変わっていった体感があって。民主党政権から安倍政権になって、そこから2015年のあいだに法律がどんどん改悪されたと僕は思うし。その様子を見ていると、2013年の『cocoon』のあと、世界は全然変わらなかったなと感じてしまったんです。というか、変わらないどころか、確実に悪化していきましたよね。あの夏、『cocoon』を観るために本当にたくさんの観客が劇場に集まって。追加公演もしたし、当日券を求めるために隣りのシアターウエストに届くぐらい行列もできたし、観客もいろんな思いをして『cocoon』を観にきてくれたわけだけど。作品を政治という現実に繋げて考え過ぎたくはないのだけど、でもとにかく「シアターイースト(東京芸術劇場)で上演するだけじゃ、足りてなかったんじゃないか?」と思ったんです。次はもっと日数も増やして、ツアーを組んで『cocoon』が沖縄へ届くようにしたいと、支えてくれている制作や劇場と話しましたね。
──藤田さんの中では、演劇を上演することと、世界を変えることが繋がってるんですね。
藤田 並行して、寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』に取り組んでいたことも大きかったです。演劇とは、単に俳優が物語の中で役を演じるだけじゃなくて、俳優が足を運んだ観客を前に“ある考え方”を述べる場でもある、ということに気づいていった時期でもあって。観客の中には、僕と違う考え方を持っている人が絶対にいるし、いろんな角度からたくさんの人に届く言葉は見つけていくにせよ、やっぱり自分の作品の中にある言葉は、最終的には僕の“ある考え方”になってしまう。その言葉が届く人もいるかもしれないけど、届かない人もたくさんいるということを知って、そのことに妙にわくわくしたんですよね。多くの観客を前になにかを述べるというのは、ある意味では集会を開くというのと変わらないんじゃないか、と。
──そう考えていくと、初演の『cocoon』のときに蜷川幸雄さんが観劇されて、そこからかかわりが生まれたってことも大きなポイントだったのかもしれないですね。
藤田 あのときに蜷川さんが楽屋にきてくれて、「自分たちが若い頃に、どの表現よりも演劇がかっこいいと思える時代があったけど、その時代がまた戻ってきたと思えた」って言ったんですよ。彼が言う時代というのは、政治と演劇というものが今よりもずっと近くにあった時代のことだと思うんですけど。60年代、70年代に新宿界隈で上演されていた演劇は、政治に対してのアジテーションがかなりあっただろうし。現実と虚構のバランスが取れなくなっていると、そのころ蜷川さんは感じていたらしいんですね。僕が『cocoon』を発表していたときに漠然と抱えていた違和感と、そこが一致したというか。我々が表現としての質をいくら高めようとしても、現在を生きている観客は現実を持って劇場へやってくるから、我々の表現を表現として捉えない観客もいるんですよね。そうなると、作品が持つ単純な美しさとかそういう感触が霞んでいくんだけど、まあそれはそれで演劇という表現ならではだし、ほんとうに面白いことだよね、って蜷川さんと盛り上がっていましたね。
──『cocoon』が2015年に再演されたときは、全国6都市を巡り、沖縄のちゃたんニライセンターでも上演されました。沖縄公演はどんな記憶として残っていますか?
藤田 沖縄で上演するのは、正直めちゃくちゃ緊張しましたね。「沖縄の人間じゃないのに、どうしてこんなことを描けるんだ」って言われるような気がして。でも、観終わったあとに僕のところに話しにきた人たちが、いろんな感想を伝えてくれて。あんなに終演後に人と話すことってなかったと思うし、驚いたのはそのほとんどの皆さんが「ありがとう」って言ってくれたんですよね。北谷では2日間公演したんですけど、思い返してみても2日目のお昼の上演が素晴らしかったです。ラストシーンで劇場の窓を開けて、そこから射し込んでくるひかりが照明ではつくることができないくらい綺麗でした。
──あの日は隣のグラウンドでエイサーフェスティバルも開催されてましたね。
藤田 そうそう。終演後にどこかに飲みにいこうとなんか思えなくて、俳優もスタッフも皆が疲れ果てていたんだけど、ずたぼろの身体を引きずってグラウンドに出たらエイサーが行われていて。それをただ眺めるという──なんか天国みたいな時間でしたね。こどもたちがお祭りを楽しんでいる向こうで、筋骨隆々の男の人たちがエイサーを踊っていて、その遥か頭上を入道雲が立ち昇っていて。あの光景は忘れられないですね。
──『cocoon』以外にも、『みえるわ』や『まえのひ』、『めにみえない みみにしたい』など、藤田さんは全国ツアーに出るとき、上演する場所に沖縄が含まれることが多いですよね。
藤田 関わった土地すべてに対してそうなんだけど、一回関わり始めたら、もう無視できないんですよね。一回出会ってしまった人と別れるのは大変なことであるのと同じように、出会ってしまった土地のことを考えなくなることは、僕の中ではありえないことなので。だから、なにかツアーが組まれたときも、「あの土地へは行かないの?」って話に必ずなるんです。青柳いづみ(『cocoon』で主人公のサンを演じた)とは、会うとずっと沖縄のことを話しているんですよね。ほんとうに、常にってレベルで。青柳は青柳で個人的に何度も沖縄に足を運んでいるし、「なにかツアーをするなら、当たり前に沖縄でも上演したい」って。
──不思議なのは、藤田さんは沖縄に何度も足を運んでますけど、あんまり行く場所が増えないですよね。普通は「前回はこのあたりに出かけたから、今回は違うところを探索しよう」となりそうなのに、いつも荒崎海岸に出かけて、喜屋武岬に行って、そこで手を合わせるってことを繰り返されています。
藤田 ああ、そう言われるとそうですね。手を合わせているんですよね、自然と。僕は幼いころから、どういうわけか手を合わせるってことに違和感があったんですよ。じいちゃんの仏壇の前で家族が手を合わせていても、僕は素直にそれができなくて。「ここで手を合わせることが、じいちゃんのどこに繋がっているんだろう?」って。手を合わせても、会えるわけではないから。でも──このインタビューを受けていても思うんだけど、感謝しかないなって思うんです。
──感謝というと?
藤田 それは今日さんに対する感謝でもあるんだけど、2012年に今日さんと一緒に戦跡を巡ったとき、行く先々で今日さんが手を合わせていたんです。その姿を見たときに、初めて手を合わせるってことが自分の中にスッと入ってきて。その場所で亡くなったひとりひとりの悲劇を思って手を合わせるみたいに仰々しいことではなくて、かつてそこにいたかもしれない人たちに、「ここにきました」ってことで手を合わせているような感覚があったんです。だからそう考えると、沖縄まできているのに、その場所に行かないほうがそわそわするんですよね。沖縄にくるたびに荒崎海岸と喜屋武岬に行って、「またここにきました」って自然と手を合わせていますね。